◎平和祈念(8月6日)に向けて
61年前、昭和20(1945)年の広島、夏の出来事です。
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●八月五日の夜
八月五日は日曜日であったが、月月火水木金金の休日返上で、本土決戦態勢下、市民たちは食うや食わずの空腹も、滅私奉公の精神にかえて、それぞれの立場から、勝って勝ち抜く決意に燃えながら、あわただしいその一日を送った。その夜、勤労に疲れはてた身体だから、仰ぐ夜空はひろびろと澄みきっていて、無数の星くずが美しく光っていた。
午後九時二十分、その夜空に警戒警報発令のサイレンがけたたましく鳴りひびいた。引続いて二十七分には、空襲警報が発令された。
八月に入って急に敵機の来襲が少なくなり、無気味な静寂をたもっていた町々は、にわかに騒然となった。ただちに厳重な灯火管制がおこなわれ、マッチ一本の火も戒めて、防空要員は一せいにそれぞれの部署についた。老幼婦女子・病人などの多くは、近くの防空壕や指定された避難場所へ待避した。
ラジオは、敵機一〇機より成る編隊三個梯団が、豊後水道から広島湾上空へ侵入したことを告げたが、その敵機は、市の上空を数十分旋回しただけで、進路を山口県の光海軍工廠と思われる西南方にとって飛び去った。ここ数日、警報の発令もまばらで、八月二日、三日、四日とほとんど発令されない日が続いたから、市民のあいだでは希望的な推察で、「広島は安芸門徒の多い宗教都市だから空襲しない。」とか、「昔からの移民県で、アメリカに二世がたくさんいるから避けている。」などと、たあいない流説もささやかれていたが、これを打ち消すような警報発令であった。
●八月六日明ける
六日午前零時二十五分、ふたたび空襲警報が発令され、二時十分に解除、二時十五分には警戒警報も解除された。
市民たちは警報発令のつど、出たり入ったりで、五日の夜から六日にかけて眠るひまもなかった。明け方になって、やっと防空服装のまま横になり、まどろみかけたとき、また、警戒警報のサイレンで叩き起された。
六日午前七時九分、ラジオは「敵B29四機が広島市西北方上空を旋回中」と、報じたが、まもなく退去し、七時三十一分にはこの警戒警報も解除され、「中国軍管区内上空に敵機なし」と報ぜられた。空もまったく明けきり、市民たちは昨夜からの緊張を解いて、ホッとひと息ついた。空襲は多く夜間であったから、誰しもまずは良かったと思った。町内会の役員や警防団員は、前夜から警報続出のため、ずっと詰所に出動しずめで、灯火管制や警報の伝達、待避の連絡・誘導、あるいは防空監視哨の立哨などおこない、クタクタに疲れていたが、ようやく解除になって、それぞれ自宅へ帰るか、帰る準備をしていた。
各官庁をはじめ、会社・工場などの事業所でも、その近くの居住者は出動して防衛の任についたり、また防衛当番で一晩中不寝番を続けた者らが、そのまま宿直室でくつろいだり、昼間の当番と交替したり、自宅へ朝食をとりに帰ったりしていた。
大きな軍需工場や重要な施設では、屋上の対空機関銃座などに出動していた兵士らも、防空態勢を解いて帰営した。一般の各家庭では、防空壕や指定避難場所からみな帰宅し、遅い朝食をとっていた。中にはもう職場へ出勤する者もあった。
●敵機に慣れる
この頃、日本の制海制空権を完全に奪っていたアメリカは、自由自在に日本の上空を飛びまわったから、子どもですら「今のはB29の爆音だ。」と、その機種を判別するまでになっていた。連日連夜の空襲で、一種の慣れっこになっていたためか、あるいは来襲のたびに騒いでいると、生産活動に支障を招くためからか、一機や二機の来襲のときは、警報さえ発令されないことがあった。当時の体験者の語るところによると、事実として、敵機は一万メートルの上空から侵入し、高射砲もとどかなければ、迎撃機も上昇するのが間にあわなかった。空襲警報も「安芸の宮島附近を… 」と言っているときは、すでに敵機は一〇分前に通過したあとであった。またあるときは、警報が発せられていないときでも、一万メートルの上空を白い雲の尾をひいて敵機が通過するのをしばしば見たという(森宗寿人著「紫色の閃光」)。
市民も、敵機の爆音を聴いても「朝帰りのお客さまか… 」と、気安く思い、振りかえりもしないで歩いていた(原爆体験記・陸勝利)。また、警戒警報発令中でも、「毎日のことなので、特別な危険も感じないで」町を行く者もたくさんいた(原爆体験記・北山二葉)。
●第六次建物疎開作業
この朝、広島市内では都市防衛のため、空地作りの建物強制疎開作業が進められていた。八月六日は第六次の作業実施中で、作業場所は、(一)雑魚場町附近(市役所裏) (二)土橋附近(小網町・西新町・堺町など) (三)県庁附近(水主町・天神町・中島新町・材木町など) (四)鶴見橋・比治山橋附近(鶴見町・昭和町) (五)電信隊附近(皆実町) (六)八丁堀附近であった。
朝七時からの作業開始で、出動命令を受けた各地域・職域の国民義勇隊員や中学校・高等女学校の低学年生による動員学徒らは、指定された現場に続々と集合していた。なかにはすでに作業に取りかかっている隊もあったし、町内の通りに整列して、出発前の点呼や隊長訓辞を受けている隊もあった。
危険な建物解体作業は、特設警備隊など臨時召集の老兵の部隊が主体となっておこなったが、まず瓦を除き、柱をノコギリで切断し、要所にロープをかけて引倒すのであった。作業兵は、竹の筒で作った水筒と、竹製のゴボウ剣を腰にさげ、地下足袋をはいた服装で、埃まみれになりながら汗水たらして働いた。引倒された建物を片づけるのが、動員学徒らの作業であったが、炎天下に黙々と一四、五歳の少年少女たちは、大豆やイモ・カボチャなどの代用食の、それも七、八分めばかり入っているだけの弁当箱を、作業場近くの塀の陰や木の茂みに一まとめにしておき、「僕はこれよりほか、今はお国の役に立つことはない(星は見ている・故佐々木研治)。」と、引率教師の指揮に従ってけなげに立ち働いていた。
このほか、近郊町村の義勇隊もつぎつぎに入市して、現場に集結しつつあった。また、各事業所からも多数の義勇隊員が動員されていたが、中には薄板にワラジを打ちつけた手製の下駄を履いている者もいた。これら大人にまじって、一緒に働く国民学校高等科の学童の姿も見られた。
この朝、広島市の上空は紫紺色に澄みわたり、視界に雲一つなかった。真夏の眩惑的な太陽の光線は、灼けつくようにジリジリと市街地をくまなく照射し、建物疎開に立ち働く人々の汗を容赦なく掻きたてていた。
●敵機の爆音聴く
一方、七時三十一分に警報が解除されてからも、県警察部(広島市役所内)の久城革目警部は、警防課長寺岡警視から警察電話で、「警戒警報は解除されたが広島上空に米機の爆音を聞くから警戒を十分にするよう」連絡があったが、その直前に、ラジオが「広島県に侵入した米機は、広島湾上空を南下しつつある」と報じていたので、南下途中にある米機の爆音とも思料され、注意警戒中であった(新編成広島県警察史・久城革目手記)。
●原子爆弾の炸裂
この時、上流川町の広島中央放送局では、情報連絡室から、突如、警報発令合図のベルが鳴った。軍管区司令部から情報が入ったときに、アナウンサーに知らせるベルである。古田正信アナウンサーは、第二スタジオ脇の警報事務室に駆けこんだ。
「午前八時十三分、中国軍管区情報、敵大型三機、西條上空を西進しつつあり、厳重なる警戒を要す。」 古田アナウンサーは、廊下を足ばやに歩きながら、ざっと原稿に目を通し、スタジオに入るなり、ブザーを押した。
時に八時十五分!
「中国軍管区情報!敵大型三機、西条上空を… 」
と、ここまで読みあげた瞬間、メリメリッとすさまじい音、鉄筋の建物がグラッと傾くのを感じ、フワァーッ!と体が宙に浮きあがった(原爆被災誌・広島中央放送局)。
昭和二十年(一九四五)八月六日午前八時十五分。
市民には寝耳に水の、まさに無警告奇襲爆撃であった。天を裂く熾烈な閃光と、地軸を揺るがす大爆音によって、一瞬、広島市は地面に叩きつぶされていた。街衢は、すでにそこになく、巨大な火柱が、中天めがけて奔騰した。煙雲はモウモウとして黒く天を覆い、ために全地域が深い冥暗にとざされてしまった。死者・負傷者が続出し、全市が阿鼻叫喚の修羅場と化すや、各所に火災が発生、たちまち猛火となった。火勢は刻々と激しさを加え、強いつむじ風が吹き荒れるなかを、全裸半裸のドス黒く汚れた血だるまの群衆が、幽鬼の姿で逃げまどい、バタバタと死んでいった。物の下敷きになって、生きながらに焼き殺される者も無数にあり、肉親を呼ぶ声、救助を求める声が、舞い狂う火炎のなかに聞えたが、そのほとんどは今生の別れとなった。
〈「広島原爆戦災誌」より〉
「原爆炸裂1時間後のキノコ雲」
(1945年8月6日米軍機撮影)
キノコ雲の下はこの世の地獄・・・
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「広島原爆戦災誌」は、原爆被害の全容を後世に伝えるために、被爆者をはじめとする市民の方々の協力を得ながら、
広島平和記念資料館が昭和30年代半ばから編纂作業を進め、昭和46(1971)年に全5巻を刊行したものです。広島市内の地域別の被災状況、学校・事業所別被災状況、救援救護活動等について、詳しく記述されています。
刊行当時の市長、山田節夫市長さんは、その序文で次のように述べておられます。
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原子爆弾第一号による広島の惨禍は、まさに人類の反省として、永遠に語り伝えられなければならないことである。
原子爆弾の投下は、第二次世界大戦終結の決定的契機をもたらしたが、一方、新エネルギー開放時代の扉を開いた。そして、世界平和への運動を促進し、現在なお、激動の中に発展しつつある。この意味において、残酷無比な犠牲を強いられた広島市は、また新しい世界建設への基点ともなったのであるが、この歴史的事実を書きとどめておくことは、世界恒久平和の確立を願う広島市の使命でもあり、莫大な数の犠牲者に対する最も意義深い慰霊であると言えよう。
原子爆弾の特異性は、他のTNT爆弾の威力をはるかに超越した破壊力を有することと共に、放射能線による障害の、長期にわたる発生であるが、被爆後、各界の権威者によって調査されているとおり、人体のあらゆる造血機能を冒し、治療なき疾患に陥らしめるという恐るべき作用は、文字どおり人類滅亡につながるものである。
すなわち、原子爆弾が「最後の兵器」と言われるゆえんであり、再びこの世界において、使用されてはならない兇器であるということは、もはや議論の余地はない。この事は、本誌の記述に示すとおり、身をもって広島市が証明するところであり、全世界に訴えてやまない真実である。
ここに広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆体験者の証言や各種の調査資料など、つぶさに集大成して「広島原爆戦災誌」を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を記念する永遠の献花とする次第である。
昭和四十六年八月六日
広島市長 山田節夫
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被爆後60年以上が経過し、被爆者の高齢化が進む中、被爆体験の風化や若い世代を中心とした平和意識の低下・希薄化が強く懸念される状況にあります。21世紀を核兵器や戦争のない「平和な世紀」とするためには、被爆の実相や被爆体験の意味を、次代を担う世代へ確実に継承していくことが緊要な課題となっています。
安佐北中・高等学校は、8月6日の平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)を迎えるにあたって、生徒一人一人がこの式典に込められた深い思いや願いを学習し、発せられる
「平和宣言」や
「平和への誓い」への理解をも深めるよう、本日(8月4日)全校生徒に次のような特別授業を実施しました。
[目的]
子ども一人ひとりに被爆体験を確かに継承し、世界平和の実現に貢献しようとする実践的な態度を育成する。
[教材]
・「第二楽章 ヒロシマの風」
吉永小百合編
男鹿和男画
(プリント)
・平和宣言
2005年(平成17年)8月6日
広島市長 秋葉忠利
(プリント)
※語句の説明付き
[学習指導過程]
〈1校時〉
(1) 「第二楽章 ヒロシマの風」を配布する。
(2) 本時のねらいを説明する。
[説明要旨]
広島に原子爆弾が投下されて61年目の夏を迎える。毎年8月6日に行われる
平和祈念式典に参加できる被爆者も年々減少し、祖父母や近所に住むお年寄り
から直接話を聞く機会も減ってきている。
原爆詩の朗読をライフワークにしている吉永小百合さんの朗読を聞くことによっ
て、広島に生きる人として、平和について改めて考えてもらいたい。
(3) 原爆の詩の朗読(CD)を聞かせる。
[内容]
@ 序
A ヒロシマの空
〜 間奏 〜
B 生ましめんかな
C うめぼし
D 慟哭
〜 間奏 〜
E げんしばくだん
おとうちゃん
先生のやけど
無題
F 灯籠流し
G 折づる
永遠のみどり
(4) 2校時の予告をする。
〈2校時〉
(1) 「平和宣言」を配布する。
(2) 「平和宣言」を範読する。
(3) まとめプリントを配布し、プリントを完成させる。
[内容]
・原爆について
@ 広島に原爆が投下されたのは、何という戦争の時ですか。
A 広島に原爆が投下された年、月、日、時間はいつですか。
など6項目を尋ね、学習の定着を図る。
・「平和宣言」(2005)の内容をまとめよう
@ 「平和への決意」の主な内容は・・・
A しかし、2005年5月の「核不拡散条約再検討会議」で明らかになったのは・・・
など6項目を尋ね、学習の定着を図る。
(4) まとめプリント記入事項の確認をする。
(5) 感想文用紙を配布し、感想を書かせる。
(6) 感想文用紙の回収
また、先立つ8月2日(水)、広島市教育委員会の主催により、「中・高校生によるヒロシマの継承と発信」がアステールプラザの中ホールで開催されました。中学生によるプレゼンテーション、高校生によるプレゼンテーションなどとともに、本校演劇部が演劇「戦争を知らない子どもたち」を平和への願いを込めて発表しました。
生徒一人一人が、2日後の8月6日を「平和を祈念する日」とするとともに、今後さらに平和についての学びを深め、身の回りの平和から世界平和までその実現に貢献してくれることを願っています。
( 了 )